山プレートの話

山食堂の矢沢路恵さんの山プレート談。ふと読み返していたら鳥肌がたちました。

皆さんも良かったら目を通して頂けたら幸いです。



「きっと、満足という言葉とは違うのだと思う。希望通りに応えてくれた、というのは正しいことなのか。自分の想像とは別にみせてくれた表情にこそ、あるべき姿が見えてくる。思い通りにいかないからこそ、価値のあることなのではないだろうか。

 

緊張する器。その言葉が最高の褒め言葉だと思った。料理さえ、緊張していないといけないのだと思わせるその器には、これに何を盛ってみせようか、快感に似た心地よさがある。

 

2年前の秋、飛松さんのアトリエにはじめてお邪魔した際、美しく、佇まいが凛とした器に目を奪われた。触れた瞬間のやさしさ、色といい形といい、持ち易さ然り、ある程度重ねても無理のない厚みと大きさ、転がらない安定さ。まるで、五感に訴えかけてくるような器だった。店の什器と相性がよく、景色を彩る大切な存在となり、その出会い以来、カップ、皿、ボウルなどたくさんの飛松陶器の器を使わせてもらっている。

 

山食堂の近くにアトリエ兼自宅があり、奥さんのウーちゃんは陶器のアクセサリー作家で、錦糸町にある実家のもんじゃ焼き「まろん」は頑張ったご褒美のときにお邪魔している大好きな店。ちょうど一年前に長男が誕生し、ことあるごとに集い、いまとなっては私達の生活の一部に飛松家があり、ご近所さんとして仲良くさせてもらっている。

 

あるとき、飛松さんに相談されたこと。山食堂の理想の器をつくってみたいのだと言う。器に関して、自宅から一番近くにある料理屋であることと、型ものであることの可能性の追求など、理由はいろいろと。最初は半信半疑で聞いてはいたが、どうやら本気らしいということを悟り、理想の器をただただ、ひたすら述べた。器制作に関しては全くの素人の為、詳しい事はわからないがとにかく直径20cmの皿が欲しい。

 

洋食では、この手の皿は商業的に多くある。西洋の文化では、レストランにおけるサービス側が提供と配膳をする際に左手側に皿を持ち、積み重ねて手のひらに収まる大きさになっている。カトラリーもそれに合わせた大きさで相場が決まっている。フードは風土というように、食文化に対してその器が出来ている。

 

しかし、山食堂は和食であり、日常の家庭料理を提供する店である。和食にも合う器、汁ものにも対応出来、配膳の際に持ち易い、装飾が過ぎても使いづらい、重ねても安定した形、取り皿との相性、料理を選ばない存在感…。要望は想像以上に多かったのではないかと、後になって気がついた。その全ての要求を叶えて出来上がった器には「山プレート」と名を付けていただいた。

 

飛松さんの代表作でもある石膏型を使った磁器の鋳込み製法でつくられた、光を包み込むランプシェード。機械的なフォルムの中に、手でつくられたやわらかさ。その鋳込まれたシェードの美しさたるやいかに。しかし、これまで同じ型から何個も複製していくなかで、オリジナルの原型の形になるように型抜き後に手を加えて調整してきたが、最近はその行為自体にある種の違和感を感じ、型の摩耗は型の成長だと捉えるようになった。

 

作品を制作して行く中で、ありのままを受け入れるというか、それは素材や技法がもつ性質であり、副産物であり、轆轤目にも似た鋳込み型ならではの痕跡だと思うようになったという。

 

器も同様、生産して行く毎に型は劣化していく。最近になって、その劣化すらも成長と捉え、素材が応えてくれた素直さや歪みの良さを、一点ものではなく、型でふたつ以上のものをつくるときにコントロールされすぎていない、自然のままの窮屈でないものづくりをしたいのだと。だからといって何でもありになってしまわない。100パーセント作家がうめるものではなく、見る人の余白を考える。

 

完璧なものが、全てだろうか。未完成だからこそ、余地がうまれる。こうでないといけないというものに、心を突き動かされるだろうか。そのものの美しさは、あるがままの、その姿なのである。」   矢沢路恵 談



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